日本三名園の一つ。のんびり散策してリフレッシュ!「後楽園」

江戸時代における日本最大の干拓地、沖新田1800町歩はこうしてできあがりました。
『岡山後楽園史』では、後楽園築庭は単独の工事ではなく、郡部の開発の一つとして位置づけています。こうした一連の大規模工事は、岡山藩の重臣津田永忠が総指揮を執っています。
こうして、城の背後にあって通うのに便利な場所に藩主の安息の場が作られたのです。また、岡山大学附属図書館の池田家文庫に残る江戸時代の後楽園の管理記録『御後園諸事留帳』などによると、後楽園は藩主が日常生活を過ごす場所の一つとなっており、飾り物ではなく生きた空間として活用されていたことがわかります。さらに、時として岡山藩の領民の入園も許し、ともに楽しむ空間であったことも明らかになってきています。

■基本情報
名称:岡山後楽園
住所:岡山県岡山市北区後楽園1-5
電話番号:086-272-1148
開館時間(3/20~9/30):7:30~18:00
営業時間(10/1~3/19):8:00~17:00
休館日: 無休
アクセス:岡山駅より徒歩25分
HP:http://www.okayama-korakuen.jp/
地図:「岡山後楽園」への地図
日本には「三名園」といわれる有名な公園があり、そのうちの一つがここ、岡山の後楽園です。岡山城のおひざ元にあるこの後楽園、中にはいくつかの池が作られていて、ハスの花や、菖蒲の花など、季節ごとに咲く花に癒されます。池の周りにある歴史的な建造物や橋のかかった風景、広々とした庭園から望む岡山城の姿など、写真スポットがたくさんありますよ。
夏には夜間に特別開演をしており、ライトアップした幻想的な風景を楽しめます。岡山城とセットの入場券を買うと割引もされるので、お城に行きたい人はぜひセットで買うことをおすすめします。特に桜の季節と、紅葉の季節は素晴らしい風景をご覧になれますよ。
後楽園の概要

時代と共に移り変わる後楽園
岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。
綱政の時代には、藩主の居間延養亭[えんようてい]や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。
綱政の子継政[つぐまさ]は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政[はるまさ]は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。こうした時代ごとの藩主の好みや社会事情によって後楽園の景観は変化し、その積み重ねが歴史となっています。
綱政の時代には、藩主の居間延養亭[えんようてい]や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。
綱政の子継政[つぐまさ]は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政[はるまさ]は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。こうした時代ごとの藩主の好みや社会事情によって後楽園の景観は変化し、その積み重ねが歴史となっています。
江戸時代のおもかげを伝える日本三名園
また、江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは、参勤交代で岡山を留守にする間は日を決めて庭を見せています。また、藩主のお客をもてなす場としても使われました。
明治4年(1871)、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡しました。当初は公園ではなく県庁付属地として公開されたため、日没閉門などの決まりを作って保存が図られました。
昭和9年(1934)の水害、20年の戦災に遭いましたが、江戸時代の絵図などに基づいて復旧がはかられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
大正11年に名勝に指定され、昭和27年には文化財保護法による特別名勝に指定されました。江戸時代のおもかげを伝える庭園として多くの方に愛され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、今では日本三名園として親しまれています。
明治4年(1871)、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡しました。当初は公園ではなく県庁付属地として公開されたため、日没閉門などの決まりを作って保存が図られました。
昭和9年(1934)の水害、20年の戦災に遭いましたが、江戸時代の絵図などに基づいて復旧がはかられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
大正11年に名勝に指定され、昭和27年には文化財保護法による特別名勝に指定されました。江戸時代のおもかげを伝える庭園として多くの方に愛され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、今では日本三名園として親しまれています。

後楽園の歴史
藩主のやすらぎの場の創出
江戸時代における日本最大の干拓地、沖新田1800町歩はこうしてできあがりました。
『岡山後楽園史』では、後楽園築庭は単独の工事ではなく、郡部の開発の一つとして位置づけています。こうした一連の大規模工事は、岡山藩の重臣津田永忠が総指揮を執っています。
こうして、城の背後にあって通うのに便利な場所に藩主の安息の場が作られたのです。また、岡山大学附属図書館の池田家文庫に残る江戸時代の後楽園の管理記録『御後園諸事留帳』などによると、後楽園は藩主が日常生活を過ごす場所の一つとなっており、飾り物ではなく生きた空間として活用されていたことがわかります。さらに、時として岡山藩の領民の入園も許し、ともに楽しむ空間であったことも明らかになってきています。

全景
■基本情報
名称:岡山後楽園
住所:岡山県岡山市北区後楽園1-5
電話番号:086-272-1148
開館時間(3/20~9/30):7:30~18:00
営業時間(10/1~3/19):8:00~17:00
休館日: 無休
アクセス:岡山駅より徒歩25分
HP:http://www.okayama-korakuen.jp/
地図:「岡山後楽園」への地図
コメント
コメントを投稿